企業の起こした事故における監督過失責任
JR西前社長無罪
岡田裁判長は「事故が発生する危険性を容易に認識できたとは認められない」「当時、ATSの整備を義務づける法令は存在しなかった」として、山崎前社長を無罪とした。
(産経新聞のWEBページより)
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ある日、自分の所属する会社が事故を起こし、
自分が何か特別悪いことをした自覚はないが、
「あなたには監督義務があったのにそれを怠った過失がある」
と言われ刑事訴追をされることがありうる。
普通は社長みたいな偉い人がそうなるものだけど、
場合によっては、単なる従業員でも現場責任者として、
そういう立場に立たされるかもしれない。
実際、デパート火災の事件で、
フロア責任者みたいな人が訴追され、
無罪になった例と有罪になった例がある。
(下記の参考判例参照)
自分の認識外のことで訴追されるのは怖いことだが、
ある程度は誰の身にも起きうることだ。
「こんな大事故なんだから責任をとるのが当然」
という考えが危険であることは確かだろう。
判決が指摘したと報道される通り、
その企業の体質や構造に、
人が死傷する危険のある問題があったことと、
個人の刑事責任とは分けて考えるべきというのも正論だ。
ただ、企業や構造を作り出すのは個々の人間である。
危険性が雰囲気や空気で作られたとき、
伝統的にそういう流れになっていたに過ぎない、として、
個々人の法的な責任を明確にしないことは許されるか。
それでは、当該被告人たちや社会全体の
再発防止の動機づけが弱くなってしまう面はないのか。
大きな被害を出した事故に対して、
個人の責任、とりわけ刑事責任をどう線引きして行くか、
むつかしいが、とても大事な問題だと思う。
2
報道によれば、今回の地裁判決では、
(1)事故現場付近で事故が起きる予見可能性はなかった
(2)事故を防ぎうる装置設置による結果回避義務もなかった
として鉄道会社社長を無罪にしたという。
とりあえず感じるのは次の2点だろうか。
2−1 予見可能性について。
2−1−1
「事故現場であるカーブで速度超過が生じる蓋然性」
といったものの認定を重視したようだ。
つまり、今回の脱線事故という具体的な事故が起きるかどうか、
その予見可能性を問題にしたと考えられる。
営業している路線のどこかで、
何らかの事故が起きる可能性があり、
それが起きれば人がたくさん死傷しうる、
といった抽象的な予見可能性ではなく、
予見すべき内容を相当具体化しているといえる。
2−1−2
たしかに、やたら抽象的な予見義務を課し、
それを前提に結果回避義務を課され、
結果が生じてしまったら過失犯ですよ、
というのではたまったものではない場合も多いだろう。
たとえば、自動車を運転しようと運転席に座った瞬間に、
「もしかしたら交通事故を起こすかもしれない」
と予見できるのだから、実際に起こした事故に過失あり、
なんて理屈をつけるのでは、
「責任主義」すなわち故意または過失がなければ刑罰なし、
というルールに何の意味もないことになってしまう。
2−1−3
しかし、予見の対象を、
今回たまたま事故が起こったカーブでの速度、
といったものにまで狭くすることは妥当だろうか。
現場の運転員の行為がいつ危険なものになるか、
なんてことまで、
社長のように会社全体を統括する責任者が、
いちいち予見しないのはある意味当然のことではないか。
それでは監督過失責任を狭くし過ぎるように思える。
鉄道事業では、
何トンじゃきかないだけの重量を持つ物質を、
場合によっては時速が3ケタ劼砲覆觜眤で運動させる。
それだけで見れば
「自動車に乗るなら事故の危険あり」
と同レベルの話にもなりかねない。
ただ、自動車が基本的に公道を走るのと違い、
コースはすべて自社が管理するレールの上だ。
予見義務の対象も、
自社鉄道が走るレール環境に生じうる危険、
といったところくらいまでは具体性を緩めるべきではないか。
2−1−4
とくに、今回の事件では、
鉄道運航の過密スケジュールが、
カーブに入っても速度を緩めなかった原因になった、
と考えられている。
キツキツのスケジュールを運転員に強要し、
しかもその不履行に厳罰を用意していたというのだから、
どこかでひずみが爆発する危険があったといえる。
しかし、その問題点は、
刑罰を決定する要素としては、
必ずしも重視されなかったようだ。
報道記事を読む限りだが、
その点をスルーして無罪の結論となっているように思える。
被害者や社会が問題にしているポイントが、
ズレてしまっているのではないか。
法的議論(犯罪の構成要件該当性)が
社会的な問題点とズレるのは当然といってよいか。
僕は問題があると思う。
2−1−5
ちなみに、ホテルニュージャパン火災の事件では、
スプリンクラーを設置しろと消防署から散々指導されていたのに、
とくに理由なくそれを放置していた社長が、
予見義務違反があるとして業務上過失致死の有罪となった。
「実際に何がされていないか」を正確に認識していたなら、
結果予見義務違反を肯定することには問題は少ないだろう。
ただ、「認識があれば過失を認めうる」という命題は、
「認識がないなら過失を求められない」という命題を、
少なくとも論理必然には導かない。
当人に認識がなくとも、
認識可能性があり、かつ認識すべき義務、
つまり何らかの調査をする義務があったなら、
その義務違反は過失になりうるとすることも可能だ。
具体的な事故現場であるカーブのことは知らなくても、
そういう種類の危険があり得る場所がないか、
それを常に詳しく調査していく義務が、
鉄道事業者にはあると考えることは、
それほど不自然な考えだろうか。
2−1−6
一応、ホテル事業をしていれば、
不特定多数の人間が客室を利用するから、
常に火災の危険があるのだ、
そのような場屋営業で火災が起きれば、
多数者の生命身体に危険が発生するのだ、
とはいえる。
ニュージャパン火災事件の刑事責任を裁いた最高裁判決は、
その点を指摘して、
ホテルの社長には高度な予見義務があったことを指摘した。
同判決では、その高度な予見義務であっても、
事態に対するそれなりに詳細な認識があって、
はじめて監督過失の処罰を認めた、
との分析も不可能とはいえない。
ただ、ビルに火災は不可避とはいっても、
少なくとも日常感覚では、
ホテル事業イコール火災とまではならないだろう。
当然、火災には注意してほしいとは思っても、
ホテルを経営していれば必ず火災が起きる、
とまでの結びつきはない。
第三者の過失が介在しなければ危険は生じないのだから。
それに対して、上記のように、
巨大な鉄の塊を高速で移動させる行為には、
それそのものが危険なものと評価する余地がある。
事故になるには一定の故意過失行為が介在するとしても、
そこでいう過失は、
「危険を減らす努力をしなかった」
「危険を顧みず行為した」
というものだ。
あえて積極的に火を持ち込む結果である火災よりも、
危険への距離は近いと考えることも可能となっている。
ホテル火災における過失の認定よりも、
鉄道事業における過失の認定の方が、
結果予見義務の対象の具体性を緩める理由が、
ないとはいえないと考える。
2−1−7
「認識があったのに放置すれば過失責任あり」という命題から、
「認識がないなら過失責任は問わない」とするのであれば、
ある意味では、
危機管理をいい加減にしていた方が、
過失責任の問われないで済む、
といった結果をもたらしかねない。
どんな危険も、
「知らない知らない、聞こえない聞こえないアーアーアー」
と目をつぶっていればいいことになりうるからだ。
今回の裁判では、
事故現場付近の危険性の認識の有無が
争点になってしまったらしい。
僕にはそのことに一定の違和感がある。
2−1−8
線路の中に危険な場所があるのに、
それを知らずに過密高速運転していたこと、
それは一般人にとって大変な恐怖であって、
そのことが個人責任と本当に切り離せるのか、
問題があるように思う。
2−2 結果回避義務について。
2−2−1
事故現場のカーブに
自動列車停止装置(ATS)なるものを設置していれば、
運転員がカーブへの進入速度を誤っても、
事故には至らなかったといえるらしい。
その不作為が業務上過失致死罪を成立させる要件の一である、
因果関係の存在を満たすものとして訴追されたと。
つまり、因果関係要件との重なりがありつつ、
結果回避義務を果たさなかった過失があるかという問題だ。
過失があったというためには、一般的には、
結果の予見可能性(予見義務)の存在に加え、
結果を回避することが可能であり、容易であり、
回避することが法的に義務付けられる、
という要件の充足が必要だとされている。
2−2−2
結果回避の容易性については、
そういう装置は安いものではないだろうし、
簡単につけられる、とはいえないかもしれない。
あくまで企業規模や業務の性質などと考え合わせて、
その費用の法的な捻出義務の有無を総合的に判断すべきだろう。
ただ、人の命を預かるという性質を強調するなら、
そのための費用捻出義務は認められやすくなるべきとは感じる。
2−2−3
結果回避の可能性については、
「装置をつけていれば」という点が問題になった本件では、
とくに問題になっていないと考えられる。
ただ、私見のように、
過密ダイヤや危険個所の調査不足に過失を求めるなら、
その発見可能性が一応問題になるか。
なお、客観的な回避可能性とは異なるけれど、
実際問題として装置設置などの対処をするためには、
危険性の認識が先行する。
その観点では2−1の予見可能性の問題に帰着する。
とりあえず、地裁判決は予見可能性がないことを、
設置義務がないことの根拠の中心に置いているようだ。
しかし、上に書いたような調査義務まで導くなら、
その根拠は妥当しないといえるだろう。
2−2−4
そして、肝心の結果回避義務の存否について、
この判決は、
当時の鉄道事業の関連法規に、
そのような装置の設置を義務付ける規定はなかった、
ということを主要な根拠として、
当該装置による結果回避は(少なくとも社長個人には)
法的には義務付けられないとしたようだ。
2−2−4−1
たしかに、直接義務付ける法令の有無は、
その義務の有無の判断に重要な基準とはなるだろう。
ホテルニュージャパン事件でも、
スプリンクラー等の防火設備の設置が
消防法上の義務であったことが、
その不設置による結果回避義務違反を導く根拠になっている。
ただ、法令があればその義務違反を肯定しやすいとしても、
明文規定がなければ義務はないとすることは、
やはり論理的に導かれない。
2−2−4−2
実際、上で少し触れた、
デパートの売り場責任者が火災の被害を拡大したとして、
業務上過失致死罪などに問われた判例などでは、
それらの被告人の肩書と、
消防法上の義務とを形式的に適用するのではなく、
それらの被告人が実際にどういう関与をしていたか、
実体に照らして詳細に認定していると読める。
郊外を走る鉄道の運行と、
過密な都市部を間断なく走る鉄道の運行とでは、
果たすべき注意義務に差が出るべきであって、
鉄道法の一般的な定めだけではなく、
より実質的に義務の有無を認定すべきだろう。
2−2−4−3